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リオパラリンピック -競技紹介- “ゴールボール”

いつもホームページをご覧いただき、ありがとうございます!

さて、前回のロンドンで開催されましたパラリンピックで金メダルを獲得した、

“ゴールボール”という競技をご存知でしょうか。

今回のパラリンピックのリオデジャネイロ大会は9月14日に女子の準々決勝が行われ、

日本は前回に続く2連覇は惜しくも叶いませんでした。

準決勝進出がかかったこの試合は、2―2から延長戦に入りましたが決着がつかず、

最後は、各選手が1人1球ずつシュートする「エクストラスロー」になる大接戦となりました。

連覇を狙う日本は、前半、欠端瑛子 選手、安達阿記子 選手の連続得点で先制。

その後、前後半に1点ずつ返され同点に。

延長でも試合は決まらず、サッカーのPK戦にあたる1対1のエクストラスローで、

日本は3人連続で阻まれ、結果、投球力に勝る中国に力負けしたかたちになりました。

今大会のリオパラリンピックでは、前回大会決勝で勝利した中国に敗れ、ベスト8で終えました。

浦田理恵 主将は試合後、

「金メダルを目指していたが、これが今の日本の力」

と反省の言葉を述べました。

日本にとっては、悔しい結果になりましたが、

今大会、前回王者として常に「追われる立場」として試合に臨みました。

どの相手も打倒日本を目標に、事前に研究を重ね、トレーニングに励んでいました。

その中の一つが、『力強いバウンドボール』でした。

世界一になったロンドン大会からの4年間を振り返りますと、

実はゴールボール界にとっても日本にとっても、大きな変化がありました。

それは、ロンドン大会では女子ではあまり見られなかった、“バウンドボール”が急増したことです。

その背景には、使用するボールの変更がありました。

ロンドン大会で使用されていた“カナダ製”のボールから“ドイツ製”になったのですが、

このボールが「カナダ製より2倍近く弾む」そうです。

ロンドン大会以前では、このドイツ製ボールが使用されていたそうですが、

今は当時よりも競技力が向上したことにより、

女子でもこの“よく弾むボール”の特性を生かした『バウンドボール』が主流になってきました。

視覚情報がまったくないゴールボールでは、その弾むボールの処理は非常に難しく、

さらに体格で欧米に劣る日本にとっては、さらに難しい状況になってきているのは事実です。

そのような状況の中、今大会も世界ランキング1位の中国と大接戦。

メダルは逃したものの、次の東京大会に大きな期待を感じさせる結果ではなかったでしょうか。

この普段は見る機会が少ない『ゴールボール』という競技について、簡単にご紹介します。

 

【ゴールボールとは?】

◎ゴールボールは対戦型の点取りゲームです

◎1チーム3人ずつが、長いゴールを背に向かい合って並び、相手のゴールを攻撃します

◎攻撃側は鈴の入ったボールを相手ゴールに向けて転がし、

 守備側はそれを全身を使って阻止します

◎全選手に目隠しが義務付けられているため、

守備側は鈴や足音など音を頼りにボールを防ぐことになります

◎両チームが攻撃を交互に繰り返し、

 最終的に得点を多くとった方が勝利というシンプルなルールです

●投球は時速50キロメートルに達するときもあり、重さもあるため、

 競技中にボールが壊れてしまったり、選手がけがをするなど、想像以上に激しいスポーツです

【施設、用具等】

・コート…18m×9m(*バレーボールと同じ広さ)

・ゴール…高さ1.3m×幅9メートル

・ボール…重さ1.25kg×周囲76cm(*バスケットボールとほぼ同じ大きさ)

・アイシェード…スキーのゴーグルタイプで、完全に視野を隠し、また目を保護します

・ライン…幅5cmのラインテープの下に、指からの感覚で分かるように、たこひもを通します

【試合時間】

◦正規時間(レギュラータイム):12分ハーフ(*前半12分・後半12分)、ハーフタイム3分

◦延長戦(オーバータイム):延長戦は3分ハーフ(*前半3分・後半3分)で、

 ハーフタイム3分のゴールデンゴール方式(*どちらかが得点した時点で終了)

◦エクストラスロー:延長戦でも決着がつかない場合、1対1のエクストラスローで勝敗を決定

【競技の誕生と発展】

ゴールボールは、第二次世界大戦で視力を失った軍人のリハビリテーションプログラムとして

考案され、その後スポーツとして普及していきました。

1946年にオーストラリアのハインツ・ローレンツェン、ドイツのセット・ラインドルの

両氏によって、“競技”として紹介されたのが始まりとされています。

パラリンピックにおいては、1972年ハイデルベルグ大会で公開競技に、

1976年トロント大会で正式競技となりました。

【日本におけるゴールボール競技】

わが国でゴールボール競技が初めて紹介されたのは、今から34年前のことです。

1982(昭和57)年にデンマークのスポーツコンサルタントのクラウス・ボス氏が来日し、

東京都立文京盲学校を会場として、競技の紹介が行われましたが、

その時には、全国的な普及には至りませんでした。

それから10年後の1992(平成4)年、財団法人日本身体障害者スポーツ協会により

ゴールボール競技の本格的な競技規則の翻訳が行われ、全国的な紹介がなされました。

これを機に、東京都多摩障害者スポーツセンターや京都市障害者スポーツセンター等で

ゴールボール教室が開催され、競技の紹介と競技者の育成等に取り組むようになりました。

パラリンピックにつきましては、以下の成績をおさめています。

2004年アテネパラリンピック大会で女子チームが初出場し、銅メダルを獲得。

2008年北京パラリンピック大会、女子チームが連続出場、最終結果7位。

2012年ロンドンパラリンピック大会、女子チームが3大会連続出場し、金メダルを獲得。

 

今回のリオパラリンピック日本女子代表チームで主将を務めるのが、浦田理恵 選手です。

では、浦田選手のこれまでを簡単にご紹介します。

浦田選手(福岡市中央区)は、熊本県玉名郡南関町の出身です。

小学校教師を目指していた20歳の時に、網膜色素変性症に罹ります。

視力が失われる中、「心配するだろうから・・・」と、

1年以上、ご両親には打ち明けられなかったそうです。

当時、一人暮らしをしていた福岡県から熊本県の実家へ帰省した際、

迎えに来てくれたお母さんの声の方を探したのですが・・・顔はもう見えなかったそうです。

左目の視力はなくなり、右目も視野は中央のごく小さい部分だけで光を見分けられる程度になり、

点字や白杖を使って歩くことを学び始めても「見えないからできない」と諦める日々でした。

罹患してから約1年半引きこもりの状況が続く中、

ご両親から、「自分で出来ることを捜しなさい。頑張りなさい」と励まされたそうです。

家族や友達に支えられながら、視覚障害者の訓練校に通うようになり

徐々に自分の出来る事が増えていきます。

そうして、支えてくれた皆に恩返しの意味も込めて、鍼灸マッサージの資格を3年間かけて取得!

その鍼灸マッサージの資格を勉強している折に出会ったのが、「ゴールボール」でした。

2004年アテネ・パラリンピックで、

目隠しをした選手たちが活躍するゴールボールのテレビ中継を聞き、興味を抱きます。

通っていた鍼灸(しんきゅう)マッサージ訓練校の体育館が、

偶然にも日本代表のコーチ、同じ病でアテネの銅メダルに貢献した選手、

小宮正江 選手の拠点でした。

もともと運動は決して得意ではなかったそうですが、

「見えないから・・・」と言い訳できない世界を体験したくて、

自ら練習への参加を頼み込んだそうです。

初めは才能がないのかと悩み苦しんだそうですが、

確実な努力が実り2008年には日本代表として「北京パラリンピック」に出場を果たします。

しかし結果は、日本チームは8チーム中7位。

この悔しさを晴らすために臨んだ2012年のロンドンパラリンピックで、見事金メダルを獲得!!

このメダルは、日本初となる団体競技での金メダル獲得となりました。

そして、このたびのリオパラリンピックには、キャプテンとしてチームを牽引。

難しい試合展開の中においても、常にチームの先頭に立ってプレーを続けました。

日本は、現在世界ランキング3位です。

次の東京大会でも充分にメダルを獲れる実力を持っています。

これからのさらなる活躍が期待されます!

Fortune favors the brave. ~運命は勇者に微笑む~

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