リオ五輪 ~アスリート紹介 5~
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本日、熱い17日間を終え、リオデジャネイロオリンピックが閉会しました。
南米初のオリンピックが閉幕し、オリンピックフラッグがリオから東京へと引き継がれました。
17日間にわたり、興奮と感動を与えてくれたオリンピック。
このリオ五輪で得た素晴らしい恩恵を
「この時限りではなく」
先を見通して『社会全体に広めること』が東京の課題となるかと思います。
スポーツの持つ力で、社会が真に豊かになることを願ってやみません。
さて、このたびの五輪の開会式に、
ケニアの子どもたちがメッセージを書き込めた、
「白い鳩」を型どった無数の凧の“鳩”が登場しました。
開会式では、
オリンピック賛歌を合唱することと、
五輪旗・開催国旗掲揚、
最終聖火ランナーによるトーチ点灯、
そして
平和の象徴の鳩が飛ばされることになっています。
オリンピック憲章2003年版までは、この「平和を象徴する鳩が解き放たれる」の文言があり、
開会式では鳩を使わなければならなかったようです。
実際、1896年の第1回大会開会式でも、1000羽の鳩が起用された文献があり、
1964年の東京五輪開会式では8000羽の鳩が、東京の空を舞っています。
ただ、オリンピック憲章2004年版以降、鳩に関する記述は、削除されました。
これは、1988年のソウル五輪で聖火台に止まっていた数羽の鳩を
聖火で焼いてしまったことが、問題の元になったようです・・・。
動物愛護団体等の反対により、後の1994年冬季リレハンメル大会からは、
それに替わる形で鳩の映像、風船、着ぐるみ等で行う事が恒例となりました。
真の伝統とは明文化されずとも、平和への願いを表す演出は、現在も続いています。
日本で開催されました2回目の冬季五輪の長野大会。
1998年2月の開会式では、1998羽の鳩の形をした“紙風船”が飛び立ちました。
風船でありながら、優雅に羽ばたきながら飛んでいくさまは、大きな感動を呼びました。
また、1998羽の風船のうちの一羽は、はるか太平洋を越えアメリカ大陸まで届き、
現地の子どもが発見。
地元の新聞にも大きくとりあげられました。
そして今回のリオ五輪では、「鳩の凧」が開会式を彩りました。
その凧を持った子どもに囲まれて・・・登場した男性がいました。
その男性は、キプチョゲ・ケイノ氏(1940年1月17日~)。
ケニアの元陸上競技選手です。
氏の活躍は、その後の他のケニアの選手たちに影響を及ぼし、
現在、陸上中長距離において一大勢力を誇るケニア台頭のきっかけとなりました。
氏は、1962年にオーストラリアのパースで開催された英連邦大会の3マイル(約4.8 km)に
出場して11位に入り、その輝かしいキャリアをスタートさせました。
1964年の東京オリンピックでは、5,000mで5位入賞。
1,500mでは惜しくも決勝進出を逃しますが、翌年の1965年の8月に、初挑戦した3,000mで
それまでの世界記録を6秒以上更新し、7分39秒6を達成。
その後、5,000mでも世界記録も更新。
1968年のメキシコシティオリンピックでは、1,500mではアメリカのジム・ライアン選手との激闘の上、初めての金メダルを獲得。
これは、『ケニア初の金メダル』でした。
そして、5,000mでは病気にもかかわらず出場し、銀メダルを獲得しました。
さらに、1972年のミュンヘンオリンピックでも、3,000m障害で金メダルを、
1,500mで銀メダルをそれぞれ獲得しました。
その現役時代、長脚を生かした伸びやかで柔らかいフォームはエレガントで、
草原を疾駆するチーターを思わせ『草原のランナー』と呼ばれました。
現在ですが、ケニア西部にある広大な農場で、孤児のための慈善団体を運営しているそうです。
またさらに、ケニアオリンピック委員会の会長も務められています。
この功績により、このたびのリオデジャネイロオリンピックの開会式で、
“オリンピック栄誉賞”を受賞。
ご自身が「母を早くに亡くし、毎日の通学手段は走る」ということ・・・
それが後の自分を作ったそうです。
それらの経験から、
氏はケニアにて孤児のために、教育やスポーツを受けられる保障を提供しました。
そのキプチョゲ・ケイノ氏の、開会式での受賞スピーチを紹介します。
私たちは何も持たず産まれてきて、
何も持たずこの世を去っていきます。
教育は武器です。
しかし、何も破壊しない武器です。
誰も傷つけない 平和をもたらす武器です。
教育は、平和を生みます。
教育によって、
教育を通して、
未来を育てていくのです。
『教育の支援は、 人類に前向きな変革を起こし、
“よりよい人間”になり、 “よりよい世界”を作る力となります』